抑圧された記憶
人は誰でも抑圧された記憶を持っている。それによって何かしらの影響を受けながら生きている。
ケイティ・キャノンは言っている。
私たちの体は記憶を収録したテキストであり、したがって、思い出すというのは新しい体に生まれ変わるのに等しい。
潜在意識にあるものと体が持っている記憶にはズレがある。思考は都合のよろしくないものをなかったものにしてしまう技を兼ね備えているからだ。
悲しみや苦しみを一手に引き受け、長い間たったひとりで守ってくれていたわたしのイチブ。存在すら記憶から抹消していたイチブを連れて帰ってきた。深い悲しみとそんなイチブを直視した嫌悪感に身体の中を支配されそうになりながら、何代にも渡って続いてきた連鎖をここで断ち切る。もう終わりにしたい。
そこには絶望と希望が混在していて、半分死んでいるような感覚。誰に知ってもらいたい訳じゃない。慰められたい訳じゃない。
ただ在るのだ。共に生きる。
つぶやき
移動中の電車にて。
日常にしあわせは散りばめられてる。例えば、お日さまの光に温かさを感じたとき。とか
線路沿いで小さな女の子がこちらに向かって手を振ってるのを見つけて思わず顔がほころぶ。手を振りかえせなかったことに心の中でごめんね。とつぶやく。
世界が不安に覆われている今。それでも街のなかにはたくさんのしあわせと喜びとそれと同じくらいのさみしさや悲しみが共存していて。しあわせを感じていても悲しみはあって。悲しみを感じていてもしあわせはあって。どちらも気がついていないか見たくないだけなんだと思う。
どこに行きたいんだろう。どんな景色を見たいんだろう。何を感じたいんだろう。そんなことを考えながら私は今これを書いている。こんな時だからこそ見えているものでなく見えないものを感じていきたい。
今起こっていることは出来事でしかない。その出来事をどう見てどう感じてどう捉えどう動いていくのかは自分次第だ。
日常の効用
仕事に追われる。抱えこむ。忙殺される。
朝起きて仕事に行き時計は一周し帰宅。お酒を飲んでいい具合に曖昧になった状態で寝る。そんな日々がしばらく続くと荒む。今日は何もしないと決めて着替えもせず、ひきこもろうと決める。わたしにとってバランスは最優先事項で、ここが崩れるとよろしくない。
だが、ゴロゴロとぼーっとしても思考は止まらない。あれこれ同時進行している案件が浮かぶ。約束した電話が来ないのも気になる。卑屈になる。思考をとめるには黙々と作業をするのが一番だ。言葉をひろわないようyoutubeで洋楽をかけながら、食器棚を片づけシンクを磨く。コンロを磨く。冷蔵庫を掃除し、ある材料で料理を作る。コートにブラシをかける。コーヒーを挽いて淹れる。いつもより少しだけ丁寧に日常を過ごす。それこそが荒んだ私に余白をもたらす。そんなタイミングで携帯が鳴った。待っていた電話。抱えていることを話す。愚痴りながら弱さも出せる。聞いてくれてる安心感。わかってくれてる安心感。共有できる相手。あーだこーだと言いながら一緒に考えてくれる人の存在は大きい。また少し余白がうまれてやさしくなれる。またがんばれるかな。
同じように
ふと思い出す時
ぎゅーっと苦しくなる時
愛しさが込み上げてくる時
同じように思い出していて欲しいと思う
同じようにぎゅーっとなっているんじゃないかと思う。
同じように。
どこかでつながっているモノがあると根拠のない自信。きっと口に出すことはない思い。
だけど消すことも閉じ込めることも否定することも、もうやめた。向き合うことで受け容れることで訪れた穏やかな時間。必要以上に振り回されることもなく、ごく自然に好きだと思える。それだけ。人の心の変容が好きだ。
あなたの動機がさみしさならば、何をしてもさみしさはついてくるだろう。
怒り
怒りについて聞かれて発散してきたと答えた。
発散してきた。そうだと思う。怒るし荒れるし感情はだしてる。これは確か。ただね、なんとなく、ホントか?って声も聞こえてる。本当に出してきたのか?本当に言いたい人に言ってきたのか?きっと答えはNOだ。怒るとどうなる?と聞かれて、どうだろう?と悩んだ。普段口に出せてる部分は大したことのない怒りだ。問いの答えは黙るだった。ってことは出してない。ってことだ。自分が黙ればそれで収まる。出してたつもりか?理性の人だとよく言われる。感情を誤魔化すことはうまいと思う。でも思ってるだけかもしれない。結局の所、自分のことはよくわからない。
人間なんてそんなもんだ。
あなたのために
あー。やってしまった感。
必要とされたい。役に立ちたい。何かできることはないだろうか?何ができるだろう?
「あなたのために」
感じていたイライラはそうしたい自分がいて、そうできない自分もいて、身動きの取れない自分の焦りや不甲斐なさを投影していたものだった。「よかれ」という厄介なもの。自分が大嫌いなこと。自分が役割だと思いながらやっていたことが相手にとっては迷惑だったかもしれない。事がスムーズに進むようにと思って先回りをして策を講じて根回ししていたことはかえって混乱を招いていたかもしれない。相手の意向に沿っていなかったかもしれない。意図していたことを阻害する行為だったかもしれない。
そう思った時、また脳裏に浮かんだ。
「私がすることは誰かの迷惑になるかも」
「何かをしないと存在価値がない」
という思い込み。大事にしたい相手であればある程、必要とされたい思いは強くなる。
結局の所、承認欲求な訳だ。
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あの日はここまで書いてやめた。
読み返す。
なんだか嫌な気分。
人は誰でも誰かの役に立ちたい。そう無意識に思うだろう。人に認められたい。それも健全なことだろう。いい塩梅であれば。ということだ
厄介なのは、そうでなければ存在価値がない。と思うこと。「条件つき」ということ。
いつものパターン。そうやってぐるぐるまわる
そして幼い日の出来事が浮かぶ。
、、、まぁ、どうでもいいか
ただ笑っていて欲しい。
疲れた顔をみたくない。
好きなことをやっていてほしい。
楽しげに笑ってる姿をみていたい。
それだけなのだ。
面倒くさい。
そう言って片付けよう。