ヒトイキル

ココロの声をそのままにつらつらと。

夜の海の旅

最近、眠れない日々が続いている。眠れてはいるが頭は休んでいない状態。夢の中まで思考がつきまとう。人は言葉にできたものを認識すると言う。言葉にしてはじめてカタチ作られるという訳だ。私の内面にある曖昧な感情やら諸々を言語化する作業が夢の中でも繰り広げられている。今朝もぼーっとしながら、それは始まった。人は環境や体験からつくられるが、それを言語化する過程でその人の都合のいい言葉になるだけではないのか?「わたし」という存在を説明するときに多くの言葉を必要とする。透明な人型に言葉をペタペタと貼り付けていくイメージ。しかし、その言葉は「わたし」から生まれるものだから「わたし」が知り得る範囲に限られる。弱さを隠すための言葉は真実ではない。そうやって鎧化していくのではないだろうか。だとすると価値観やトラウマ、規範などの全てが的外れなこともあり得る訳だ。朝っぱらからこんなことを考えてるわたしはある意味幸せなのかもしれない。

フランス精神科医ピエール ジャネは「どの人生も、利用可能な手段のいっさいによってまとめあげられた一つの芸術作品である」と言っている。

言葉の鎧を身に纏った人型はまさしく芸術作品なのかもしれない。

随分、重たい鎧を着せたものだ。

 

思考が夢の中まで侵入しているには理由がある。

 

ティーブン・コープの言葉を借りれば

「夜の海の旅」は、私たちの中で引きちぎられ、拒否され、知られておらず、望まれてもおらず、追い出され、意識のさまざまな地下世界へ追放された部分への旅にほかならない。

 

わたしは今、この旅をしている。

 

・・・この旅の目的は自分を自分自身と再会させることだ。そのような帰郷は、驚くほど不快なものや、過酷なものにさえなりうる。それを企てるためにはまず、何一つ追放しないとやくそくしなければならない。

 

何一つ追放しない。これがまた難しい。

 

わたしの中に、「誰かが嫌な思いをしない」という判断基準がある。幼少期から身につけた鎧だ。誰かを優先する時に誰を犠牲にするのか。それはわたし自身。この鎧はかなり手強い。